『一粒の種』
この歌は、短い一生を終えようとする人の最後の言葉が元になっています。
しかし、それは決して絶望や無念の思いなどではありません。残されたものへの深い愛情。もう一度会えるという強い確信。
「すぐ傍にいるよ」と、寄り添うように囁きかける慈しみ。
生死の境界を超越したような言霊の一つひとつが、聴く者に希望を与えてくれる、そんな人間愛に満ち溢れた歌なのです。
最後の言葉を言い遺した者から、それを看取った看護師へ、看護師から 作曲者へ、そして歌い手へ、それはまるで一粒の種が見えない力に導かれるように、人の手から手へと伝って蒔かれ、芽を出し生長していくようです。
砂川恵理歌さんの歌の力によって、一粒の種が全国へ、全世界へ蒔かれる時がきました。
この歌を聴いた人は、命の尊さを琴線で感じ、優しさに包まれ、きっと 勇気づけられるに違いありません。

下地勇



『CD化に寄せて』
生と死がせめぎあう病院という空間で、看護師は患者を看る。
健康を取り戻した患者を社会に送り出す日もあれば、救いたくても救えない命に真正面から向き合わねばならない日もある。彼の最期を看た時もそうだった。闘病に耐えた末、初めて吐露された彼の思いは「一粒でいい。人間の種になって生きていたいよ・・・」だった。
間もなく彼は逝き、私が彼の最期の言葉を預かることとなった。
私が種を蒔こうと心に誓い、メールマガジン「くまから かまから」(※)に初めて「一粒の種」を蒔いたのは2004年のことだった。
彼の遺志であるこの詩は両親にも届き、心の支えに生きていこうとするが、哀しみのなか、母親は病に倒れてしまった。息子の遺志である「一粒の種」が歌になったら、寝たきりの母親の耳にも届くに違いない。悲痛な毎日を送る父親に元気になってもらいたい。その一心から話をしたのが下地勇さんだった。「一粒の種でいい、生きていたい」と願った彼の遺志は、下地勇さんの手によって歌となり、母親の眠れる記憶をも揺さぶった。歌を聞いた母親は、息子の遺志に応えるように自ら言葉を発したのだった。

逝かねばならない日の哀しみの詩は、時を経て残された者への慈愛の歌となり、続くこの先もいつも側にいることを教えてくれる。まさに彼が願った「命の種になってこの世に在り続ける」ことになったのである。
これらの一連のことに「一粒の種」を蒔いた者として、驚きと感動、何よりも感謝の気持ちを抑えることができない。
病院という空間で生まれた「一粒の種」を、患者と看護師の世界の「第一章」とするならば、下地勇さんの感性から生まれた歌「一粒の種」は音楽の世界の「第二章」である。命の愛しさを伴って、語りかけるように砂川恵理歌さんに歌われるこの歌は、まるで慈愛溢れる魂の囁きのよう。癒しと安らぎに包まれながら砂川恵理歌さんから始まる「第三章」を感じる・・・。

彼の冥福を心から祈るとともに、この歌が必要とされる人の元に届きますように。
そして、聴いた人の心にも芽をだしますように・・・。

高橋尚子(看護師)


※メールマガジン「くまから かまから」・・・宮古島出身者数人がライターとなり、宮古島方言を用いてエッセイやことわざ、文化、宮古島方言講座などを掲載・伝達する無料メールマガジン。
http://kumakarakamakara.hp.infoseek.co.jp/



誰の心にもある悼み。その傷口にやわらかな手をそっとあててくれる「一粒の種」。
だから、ぼくなら母の言葉が甦った。癌の手術を終え、退院した母から届いた手紙には、「庭の花が咲くのをこんなに嬉しい気持ちで見た事は今までなかった」と綴られていた。ある人は亡くした家族を語ったという。「じっくり一人で聴くたび、死んだじいちゃんとばあちゃんを思い出します」とメールをくれた方もいる。
 歌は世に連れ、世は歌に連れ、盛者必衰のことわりをあらわす。が、もしも継がれる歌があるのなら、「一粒の種」がそれだ。トレンドと呼べるものなんて一滴もなくても、安らかなる胸中を訥々とささやいているから。ささやかなることの尊さを思い出させてくれるから。
たとえばミリオンヒットが流行ファッションなら、「一粒の種」は胸ポケットに忍ばせた愛する人の写真。どんな服を着ても、写真はそこに。服の上からでも手をあてると、自分にしか見えない光を感じる。
そして、もう1点どうしても書かずに終われないのが砂川恵理歌について。技巧を排した無垢さに耳を奪われた。声の響きや揺らぎに虚飾はない。あまたの歌があり、あまたの歌手がいるなか、この歌が彼女を求め、彼女がこの歌を求めていたと思えるほどだ。
彼女の声は風。ゆるやかに吹く。一粒の種を運ぶ。それはぼくの、あなたの、誰かの心に舞い降りる。やがて芽吹き、花が咲く。枯れることのない花を咲かす。

藤井徹貫(ライター)